四字熟語「鶏口牛後」
鶏口牛後という四字熟語があります。
その意味するところは、次のとおりです。
牛のような大きな集団でも末席を汚しているようではどうしようもない。
出典は、中国の古典、「史記-蘇秦伝」です。
昔々の中国でのお話。
強国の秦に立ち向かうために、蘇秦と言う男が、周辺の六カ国(楚、斉、燕、韓、魏、趙)を説き回って合従策を提案したときに言った言葉とされています。
元の中国語は「寧為鶏口、無為牛後」
元の中国語では、『寧為鶏口、無為牛後』と書かれています。
日本語に直訳すると、『寧ろ鶏口となるも牛後となるなかれ』と読みますが、日本語と違うポイントで、大事なことは『牛後』の意味です。
単純に「牛の後ろ」ではなくて、「牛の肛門」を指す言葉なのです。
中国語のサイトを調べてみるとこんなふうに書かれています。
寧:むしろ~願う
牛後;牛の肛門
全体の意味:大きくて臭い牛の肛門よりも、小さくて清潔な鶏のくちばしでありたい。
もちろん例え話が多い中国の故事のことですから、直接的に牛の肛門を論じているわけではありません。
蘇秦と言う男は、きっとこんな話をしたのでしょう。
強大な秦の同盟国だと思って、秦にくっついていると、いつか攻め込まれて国を乗っ取られてしまいますよ。
それよりも、小国であっても独立国の主として構えていれば、簡単には攻め込まれません。
鶏の口たる、6つの小国が力を合わせて秦に立ち向かいましょう。
つまり、大きく強力な集団の力を借りて後方でウロウロしているのではなく、小さくても自分が先頭に立って引っ張って行くほうが良い、と言いたいのです。
現代社会に例えてみれば、大会社の歯車になって末端で働くよりも、小さな会社で方針を決定するような立場に立つ方が良い。
あるいは、甲子園常連強で強豪高校の野球部で補欠で球拾いをしているよりも、弱小野球部の高校でもレギュラーになって活躍するほうが良い。
そのような意味合いの言葉です。
鶏頭牛尾とは
「鶏頭牛尾」という言葉には、語源となる由来がありません。
想像するに「竜頭蛇尾」と混同して生まれた錯覚の熟語ではないでしょうか。
「竜頭蛇尾」は、出だしだけが立派で勢いがありますが、だんだん弱く曖昧になり、最後に尻切れトンボで何だかわからなくなってしまう様子を比喩した言葉です。
大風呂敷を広げて、計画だけが立派で最後に何も残らないような、見掛け倒しの企画や製作物のことをも言います。
竜頭蛇尾の『頭と尻尾』の言葉の並びが、日本人には『口と後(肛門)』よりも分かり易いと思います。
そこで、「口と後」を「頭と尻尾」に置き換えてみたら、鶏頭牛尾となりました。
日本人的には、なんと分かりやすい言葉の響きでしょうか。
こんな経緯で、偶発的にできた言葉ではないでしょうか。
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「鶏頭牛尾」は間違いだろうか
「鶏頭牛尾」も結構知れ渡っており、むしろ、こちらが正当だと思っている人も多いようです。
言葉は生き物ですから、多くの人が正しいと思って使っているのなら、むしろ誤用ではなく正当な言葉に変わってしまいます。
最近の若者言葉では、こんな例がありますね。
- 「ヤバイ」が悪い意味ではない用例が増えている
- 「全然」が否定語を伴わないで「全然いい」のように使われる
- 「めんどい」が「めんどくさい」の省略形として完全に独立している
このような観点では、「鶏頭牛尾」は必ずしも間違いとは言い切れないかもしれません。
しかし、「むしろ鶏頭となるも牛尾となるなかれ」と展開するのは、まちがいと見て良いでしょう。
この言葉の語源となる由来がありませんし、多くの人が唱えているわけでもありませんから、市民権を得ているとは判断出来ません。
「鶏口牛後」の反対は何と言うか
小さくても一国一城の主で生きなさいと説くのが「鶏口牛後」ですが、反対の生き方を説く言葉もあります。
例えば、次のような言葉です。
寄らば大樹の陰
身を寄せるならば、大木の下が安全である。同じ頼るならば、勢力のある人のほうがよいというたとえ。
似たような言葉として、次のようなものもありますね。
犬になるなら大家の犬になれ
長いものにはまかれろ
いずれも、安定志向で楽な生き方を説いているもので、鶏口牛後とはまったく逆になります。
実際の人生において、どう生きるかは、社会情勢や自分の能力(資金・人脈・身体・性格)を考慮した上で決めるべきことであり、一つの格言や故事成語で決められるものではありません。
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まとめ
「鶏口牛後」は中国の故事から引用された四字熟語です。
中国の原語では「寧為鶏口、無為牛後」で、『寧ろ鶏口となるも牛後となるなかれ』と読みます。
直接的な意味は「大きくて臭い牛の肛門よりも、小さくて清潔な鶏のくちばしでありたい」
教訓としての意味は「大きく強力な集団の末席に埋もれるよりも、小さな弱小集団でもリーダーになりなさい」
「鶏頭牛尾」は、「鶏口牛後」から派生した誤用だと思いますが、ある程度の市民権を得ているので、完全な誤りとは言えない状況です。
しかし、「鶏頭牛尾」を展開して『寧ろ鶏頭となるも牛尾となるなかれ』と読むのは間違いです。
人の生き方を説く言葉ですが、反対のことわざや成語もあるので、一概に「鶏口牛後」だけが正しい道とは言えないのかもしれません。
また、「牛口」なるのがベストかと思うと、必ずしもそうとは言えない場合も多々あります。
その責任の重さと重圧に耐えかねて自滅する例も少なくありませんからね。
人生いろいろですね。
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