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ジャンベの歴史は西アフリカから始まった
ジャンベとは、セネガルや、昔、象牙海岸と呼ばれたコートジボワールなど、アフリカ西部地方で古くから使われた民族楽器の片面太鼓です。
セネガルと言われて馴染みがなくても、ちょっと古い人なら、過去にパリダカ・ラリーのゴールとして有名なダカールを首都とする国だといえば、あぁ、あの辺かと思い浮かぶことでしょう。
だいたい、こんな格好をした片面太鼓で、アフリカの1本の広葉樹から形を彫り出して、片面に動物の皮をドラムヘッドとして強く張ります。
アフリカの民族楽器の太鼓には、主に低音を担当するドゥンドゥンやケンケニ、あるいはトーキング・ドラムとして知られているタマなどがありますが、ジャンベは高音・中音・低音の打ち分けができることから、ステージ音楽の伴奏楽器としても、近年よく知られるようになりました。
そんな最近人気のジャンベのルーツをご紹介しましょう。
目次に戻るジャンベの歴史!発祥の宗教からカルチャーへ
ジャンベの歴史は複雑で多様な経緯をたどっていますが、その全てを確認するのは難しいでしょう。
なぜなら、アフリカ人は長い間、口語で歴史を伝えてきており文書が残されていません。
さらに、時代とともに、また地域によって多様に変化した可能性もあります。
ここでは、多少の推定も加えながらジャンベ発祥の歴史をたどってみます。
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ジャンベの歴史はマリ帝国で産まれた
この地域を含む西アフリカ一帯は、1230年代から1645年まで栄えたマリ帝国の領土で、西アフリカのほぼすべての民族集団の何百万人もの人々を支配する大帝国でした。
日本の鎌倉時代から江戸時代初期に相当する時代です。
当時、スンディアータ王はマンディンカの人々を支配し、英雄として尊敬されていました。
ジャンベの歴史は、この時代に始まったものと思われています。
人々は歌いました。
この頃の歌は、スンディアータ王のような偉大な指導者を讃えるか、コブラーやハンターのような特定の職業に語りかけて賞賛します。
広いマリ帝国の中でも、ジャンベはギニア北東部がその発祥の地で、マンディンカ(Mandinka)人によって発明されそこから西アフリカ一帯に広まったとようです。
マンディンカの人々は、彼らの社会をカーストや職業グループに分けていました。
最初にジャンベを使ったのは鍛冶屋のカーストの人々で、鉄鉱石の製錬中にのみジャンべを演奏しました。
また、村と村との連絡手段に使われたとも伝えられています。
ジャンベのゴブレット型のカップ形状は、西アフリカで広く食品加工に使われていたモルタル(乳鉢)の形状から発想を得たと考えられています。
鍛冶屋の人々が広く移住するにつれて、ジャンベとその文化が西アフリカに広がったのです。
現在では、セネガル、モーリタニア南部、マリ、ブルキナファソ北部、西ニジェール、ガンビア、ギニアビサウ、ギニア、コートジボワール、北部ガーナの現代国に広がっています。
目次に戻るジャンベは神聖な楽器だった
時が過ぎて社会のカーストを超えてジャンベが知られるようになり、この時代にマリ帝国の共通の文化として、冠婚葬祭に用いられたアフリカ音楽が共有化され、ジャンベも普及したものと考えられています。
この当時、ジャンベは神聖なものなので、伝統的に、ジャンベを演奏できる家系が定められおり、その家に生まれた者だけがジャンベを演奏することができます。
ジャンベの家に生まれた家族の一人であれば、専用の楽器が与えられ、村の行事のために演奏することが仕事でした。
この伝統は今日でも存在し、伝統的な音楽を担当しています。
伝統的演奏者は、結婚、出産、儀式、バプテスマ、時には葬式の間に歌い、演奏し祖先の音楽として信頼されています。
アフリカ人はジャンベには3つの精神が含まれていると信じています。
- 伐採された樹木の精神
- 皮を利用した動物の精神
- 製造に関連した人間の精神
(樹を切る、ノミで掘る、組み立て)
おそらく、最も重要なのは先祖の人々の精神です。
名前の由来は、マリやコートジボワールで話される『バンバラ語』で
『ジェベバラ』(ジェベ=調和、バラ=太鼓)
と呼ばれていたものが、各地で、ジェンベとかジンベとか変わっていったものと考えられています。
広い地域なので、ジャンベについても形状や素材について、地域特性が見られるようになりました。
伝統的なジャンベ演奏スタイル
典型的なジャンベ演奏には、中心になるジャンベ演奏者が1人、サブのジャンベが1~2人、およびダンドン演奏者が1~3人で構成されます。
さらに殆どの場合に踊り手が何人か伴います。
バスドラム(dundun)は、通常、スティックで演奏され、リズムの中核的な役割を担います。
サイズとピッチの異なる3種類のバスドラムがあり、それは、ドンウンバ(またはダンドン)、サンバン、ケンケニです。
ジャンベの伴奏者はそれぞれベースドラムと並んで異なるリズムを演奏して基本曲を完成させます。
儀式では何時間も続く単一の伝統的な曲が演奏されます。
この場合のジャンベは観客の前で演奏されるパフォーマンス楽器ではありません。
村における行事のなかの役割として演奏しているのです。
このようにもともとは神聖な行事に際して演奏されていた楽器ですが、徐々に娯楽面にも広がります。
目次に戻るやがて作業の歌としても使われる
ギニアとマリの村では、伝統的な儀式ではない演奏もしばしば見かけます。
彼らの歌や音楽は、ときとして仕事のために歌われます。
耕作、播種と収穫の間に、裁判の儀式の間に、あるいは紛争を解決するために歌を歌うこともあります。
シェケレ(上図:マラカスのようなリズム楽器)や鐘があれば、それから始まり続いてバスドラム(dunun)、次にジャンベを順番に追加していきます。
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ジャンベの歴史!構造は牛革の紐からナイロンロープへ
ジャンベの歴史は数百年と長いのですが、アフリカでは文字がなく口頭伝承だったために、紙の資料が残っていません。
もちろん映画などあるはずもなく、ジャンベが撮影された最も古い写真のひとつとされるのが、1931年にパリの展覧会で発表された下の写真です。
この当時のジャンベは、現在のロープジャンベとは違います。
目次に戻るロープジャンベの歴史は浅くわずか30年
皆さんの多くは、伝統的なジャンベの形状は、ロープチューニングジャンベと思っていませんか。
しかし、現在使われている合成樹脂のロープがジャンベに応用されたのは1980年代からなので、ジャンベの歴史の中ではまだ新しい技術なのです。
そもそも、アメリカのデュポン社がナイロンを発明したのが1931年、ポリエステルが発明されたのは1941年のことですから、100年以上前のジャンベに使われるはずがありません。
ナイロンロープが登山用に普及したのは1950年代に入ってからで、そのロープがジャンベに応用されたのは1980年代以降なのです。
また、鉄のリングを考案したのはニュヨークのアメリカ人で、このアイディアをジャズ・パーカッショニストでありアフリカの民俗学者でもあったJames Hawthorne Bey (通称:Chief Bey)が、1970年代はじめに西アフリカに持ち込んだことが始まりだと伝えられています。
上のチーフ・ベイの写真のジャンベは、現在のロープチューニングジャンベとは趣が違いますね。
こうして、現在のジャンベを構成する主要パーツである、合成樹脂製のロープと鉄製のリングが1980年代には提案されましたが、すぐに普及することはできませんでした。
下に示すような古典的なジャンベ構造を守りたい演奏者たちの抵抗があって、新しい構造のジャンベの普及には時間がかかり、ロープチューニングジャンベにほぼ完全に置き換わったのは、1991年頃だと言われています。
400年~800年と言われるジャンベの長い歴史の中で、ロープジャンベはまだわずか30年間に過ぎないのです。
目次に戻るロープジャンベ以前はテンションとの戦いだった
1980年代までは、ナイロンやポリエステルのロープがありませんでしたから、代わりに、牛革の撚り紐を使っていました。
牛革の代わりに草食動物の腸の紐を利用していたという話もあります。
鉄のリングもありませんでしたから、山羊皮に直接穴を開けて牛革の紐を通して引っ張っていたのです。
あるいは、硬い牛革製のリングに山羊皮を縫い付けて、それよりやや小さい牛革のリングをかぶせてロープで引っ張る構造をとっていたものもあったようです。
縦の紐を長くしすぎると張力が保てないので、牛革の紐を亀甲模様(ダイヤモンドパターン)に編み込んで、紐の長さを短くしました。
こうして、いろいろな工夫をするのですが、それでも十分な張力が得られないので、木片で作ったペグを叩き込んで、さらに紐に張力を与えました。
この当時の伝統的なジャンベは、天然素材の強度限界のために現在のロープチューニングジャンベよりもはるかにテンションが低かったのです。
そのため、演奏に先立って、火の近くでジャンベの打面を温めて山羊皮の水分を乾燥させて、皮を収縮させることによってジャンベのテンションを強くしました。
このプロセスは、15〜30分ごとに頻繁に繰り返されなければならなかったのです。
次の項で述べるヨーロッパ公演の際には、電熱ヒーターを多数用意させて、演奏の前にジャンベを加熱してテンションを高めていたという話もあります。
撮影時代がはっきりしませんが、上の写真のジャンベも、シェル(胴)の周りに、ダイヤモンドパターンに紐が張られていることが分かりますね。
明らかに、現在のロープチューニングジャンベとは、構造が違います。
目次に戻るロープジャンベとメカニカルジャンベ
1990年代には、ジェンベといえば、3本の鉄リングとナイロンロープを使ったロープチューニングジャンベの構造が固まりました。
ナイロンロープは現在でも芯材として使われていますが、耐久性のあるポリエステルロープが被覆に使われています。
見た目は、ロープと言うよりも組み紐と言ったほうが受け入れやすいですね。
その後、ジャンベが普及するともに欧米のパーカッションメーカーが、工業的なジャンベの生産に乗り出しました。
2000年代に入ってから、アメリカのREMO、TOCA、LP(ラテンパーカッション)、ドイツのMeinlなどが、ドラムセットの技術を応用したメカニカルチューニングのジャンベがステージ音楽用として一般的になってきました。
メカニカルの機構は、各社独自の設計ですが、専用のツールを使用してネジで締め上げる考え方は同じです。
シエル(胴)の材質は、グラスファイバーや圧縮素材など軽量で強度がある素材を選定して軽量化を図っています。
軽量化によって、音質が変化するのは当然のことで、変化して作られた新しい音を好むか好まないかは、個人の好みに依存するもので、どちらかに良否をつけられるものではありません。
また、ヘッドの材料は、湿度管理が必要な山羊皮ではなく、合成材料のヘッドを採用した製品があります。
この音質も、個人の好みに委ねられますが、管理が容易になったことは明らかです。
今日においては、シェルの材料、ヘッドの材料、チューニングメカニズムを多様に組み合わせて、個性ある製品が作られていますので、個人個人の用途と好みに合わせて選択することが出来ます。
目次に戻る1950年代からジャンベの世界普及
時代は遡りますが、マリ帝国滅亡の後、小王国が乱立した時代が続き、1890年頃に欧州列強に屈してこの辺一帯はフランスの領土となります。
やがて植民地の時代が終わり、1960年代に入り、この地域では各国がフランスから独立しました。
目次に戻る政府によるアフリカ歌舞団の設立
ジャンベの役割は1950年代に変わり始めました。
アフリカ大陸の大部分が植民地化されたために、アフリカの文化を損なうリスクをアフリカの指導者が心配し始めたのです。
ギニア政府がスポンサーなって、国立歌舞団と演奏集団を結成しました。
歌舞団においては、アフリカ音楽の宗教性はあまり考慮されず、ここの演奏家はアフリカン・ドラムの芸術性を主体に練習しました。
ですから、村のお祝いで演じられたパフォーマンスは、ステージ演奏に合わせて振り付けられ、ここでは、神聖なアフリカ行事ではなく、ドラム演奏はパフォーマンスアートになったのです。
目次に戻る世界への普及はヨーロッパから
しかし、1950年以前は、アフリカ音楽がアフリカ以外の国に知られる機会はほとんどありませんでした。
アフリカ音楽を世界に広めた最初の人がフォデバ・ケイタです。
ミュージシャンでありギニアの政治家でもあったフォデバ・ケイタ(Fodeba Keita)は、1952年に設立されたギニアの歌舞団『レ・バレー・アフリカンズ』(Les Ballets Africains)を率いてヨーロッパで公演を行いました。
(下の動画は、フォデバ・ケイタの時代ではなく、現在のレ・バレー・アフリカンズの演奏です)
これにより、ヨーロッパの国々は北米より先にジャンベを知る機会を得てその人気が高まりました。
現在、日本ではジャンベとアフリカ伝統の踊りへの関心が高まっています。
日本のジャンベ普及に貢献したのはママディ・ケイタです。
1991年にフランスとギニアの共同映画が『ジャンベフォラ~聖なる帰郷~』のタイトルで日本でも公開されました。
これが、日本でシャンべを広めたきっかけになりました。
ママディ・ケイタは1994年の夏には日本を訪れ、鹿児島県の三島村をで地元の子供たちと交流を行いました。2004年にはアジア初のジャンベスクール、みしまジャンベスクールを開校したほか、2005年の愛・地球博では地元の子供たちが演奏を行いました。
引用元:Wikipedia/ママディ・ケイタ
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